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【きょうの人】 0606 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 相馬 哲平

  

  【きょうの人】 0606 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 相馬 哲平

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 相馬 哲平(そうま てっぺい)

 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。

 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。

 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。

  写真 函館・相馬邸
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm


■ 池 大雅

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

 

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  1. 2023/06/06(火) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0605 ■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

 

  【きょうの人】 0605 ■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

 

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■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族


 ちょうげん
 保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日)


 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。

 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。

 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。

 

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  1. 2023/06/05(月) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

■【きょうの人】 0604 ■ 最澄(伝教大師)■ 聖武天皇


  【きょうの人】 0604 ■ 最澄(伝教大師)■ 聖武天皇

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■ 聖武天皇

 しょうむてんのう
 701年〈大宝元年〉-756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)

 日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉で、諱は首(おびと)、尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)ともいいます。

 文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。

 父・文武天皇に、7歳で死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはありませんでした。このため、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。

 最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入りましたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者でした。

 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えることになりました。

 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しています。

 病弱でありましたが、その功績は、後世でも認められています。



■ 最澄(伝教大師)

 さいちょう、でんぎょうだいし
 神護景雲元年(767年)8月18日-弘仁13年6月4日(822年6月26日)

 平安時代の僧で、天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。

 生地は、近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市・坂本)で、生源寺で、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)です。

 生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在します。

 十二歳で比叡山に登り、研究修行を積みました。

 延暦23年に空海と共に、中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となりました。

 なお、最澄に唱える言葉は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」です。

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  1. 2023/06/04(日) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0603 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人

 

  きょうの人】 0603 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人

 

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 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人

 ほそかわ ゆうさい / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)
天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人、幼名は、万吉(まんきち)で、元服して藤孝を名乗ります。幽斎は雅号で、法名を玄旨といいます。

初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍足利義昭の擁立に尽力しました。

後に、義昭が信長に敵対して京都を逐われますと、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となりました。

本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲りました。

しかし、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。

また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。

享年77(満76歳没)で、京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓があります。

 経営コンサルタントの独り言】

 足利幕府を支えたり、信長、秀吉、家康等に重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。
 細川元首相にまで繋がってきているのですね。
 文京区に肥後細川庭園(旧名:新江戸川公園)があります。

  
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/bunkyou-shinedogawapark.htm




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  1. 2023/06/03(土) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

■尾形光琳 江戸の画家 ■呑龍 子育て ■専誉 真言宗豊山派の第一祖


  【きょうの人】 0602 ■尾形光琳 江戸の画家 ■呑龍 子育て ■専誉 真言宗豊山派の第一祖

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■ 尾形光琳 紅白梅図他の国宝で知られる江戸時代の画家
 おがた こうりん
 万治元年〈1658年〉-享保元年6月2日〈1716年7月20日〉
 本名は尾形 惟富(おがた これとみ)。通称は市之丞。

 尾形光琳は、江戸時代中期の画家、工芸家で、琳派の創始者とされる人物です。
 京都の呉服商の次男として生まれ、王朝文化に親しみながら、明るく華やかな色彩と独創的な意匠で多くの作品を残しました。光琳の作品は「光琳模様」と呼ばれるほど、日本の美意識に大きな影響を与えました。
 光琳は屏風や小袖、蒔絵など様々な媒体に絵を描きましたが、紅白梅図、燕子花図屏風は国宝に指定されている名作です。光琳は30歳代前半に光琳と改名し、44歳で法橋の位を得ています。代表作の『燕子花図』は法橋位受領以前の作品のようです。
 光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されています。
 光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳の人物で、直接的な師弟関係はないのですが、『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画を題材にした作品もあります。このことから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったと推定されます。
 江戸下向時代には、雪村の絵に感銘を受けたようで、雪村の絵を模写したものが数点残っています。

 尾形光琳の作品は、明るく華やかな色彩と独創的な意匠が多く、日本の美意識に大きな影響を与えたといえます。
 菖蒲図屏風の制作に見られるように、生家の染色業での型紙を、利用するなど、その手法の工夫は日本の伝統からの変化も見られます。



経営コンサルタントの独り言】

  光悦・光琳と俵屋宗達が琳派の祖といわれます。
 前二者に比べると宗達の影は薄く、江戸時代には低く見られていました。
 しかし、宗達の代表作のひとつ「風神雷神」を題材として光琳も筆を執っています。
 両者の交流がどの程度であったかは記録が定かではありませんが、光琳が宗達を買っていたことは否めないと考えます。



■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖
 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)
 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。
 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。
 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。

■ 呑龍
 どんりゅう
 弘治2年4月23日(1556年6月2日)- 元和9年8月9日(1623年9月3日)

 群馬県太田市の浄土宗大光院(だいこういん)、正式には「義重山大光院新田寺」という寺院があります。通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」もしくは「呑龍様(どんりゅうさま)」と親しまれています。
 真偽の程は定かでありませんが、徳川家康は源氏の流れを汲む新田義重の末裔であるといいます。
 慶長18年(1613年)、家康は呑龍を招聘して大光院を創建させました。境内裏には、新田義重や呑龍の墓があります。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依しました。
 大光院は、もともとは建久6年(1195年)に、寺尾城内に建立され、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移させました。
 当時、多くの子どもが間引きといわれ、殺されていいましたが、呑龍は、これを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から「子育て呑龍」と慕われました。
 話は、昭和の第二次大戦前になりますが、中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機がありましたが、その愛称「呑龍」でした。

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  1. 2023/06/02(金) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0601 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ

 

  【きょうの人】 0601 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ

 

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■ 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ

 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康
 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼

 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。

 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。

 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。

 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。

 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。

 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。

 

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  1. 2023/06/01(木) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

  【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

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■ 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

 八十二才で歿しています。

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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  1. 2023/05/31(水) 08:32:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

  【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

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■ 池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

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 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

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  1. 2023/05/30(火) 08:35:00|
  2. 【きょうの人】

【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家


  【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

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■ 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

 正字: 與謝野 晶子 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)
 よさの あきこ
 1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)

 日本の歌人、作家であり、思想家ともいえます。

 旧姓鳳(ほう)、ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取ったといわれています。

 夫は、歌人の与謝野鉄幹(与謝野寛)であることはよく知られています。夫妻で、雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物といえます。

 浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれました歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になりました。

 鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表し、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行しました。これにより浪漫派の歌人としてのスタイルを確立したといえます。

 その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑が、ウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にあります。

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  1. 2023/05/29(月) 08:35:00|
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【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃のマムシ


  【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃の

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

■ 斎藤 道三  没 美濃のマムシ

 さいとう どうさん
 明応3年(1494年)-弘治2年4月20日(1556年5月28日) 
 改名 長井規秀→斎藤利政→道三

 NHKの大河ドラマで、信長の義父として登場、一旦後継者として認めた息子との戦で討ち死にするというシーンは、目に焼き付きましたね。

  斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名で、坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により「美濃の蝮(マムシ)」という綽名でも知られています。

 娘に姉小路頼綱正室がいますが、下の娘であります帰蝶は、濃姫として知られる織田信長の正室で、NHK大河小説で一躍脚光を浴びました。

 北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物といわれています。(近年の研究により父と二代にわたって行われたという説が有力視されています。)

 権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、家督を譲った息子義龍と、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で争い、討ち死にしました。

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